革命に熱く燃えた男”ゲバラ“の青春旅行記
Gael Garcia Bernal as Che Guevara in The Motorcycle Diaries
♪ Jorge Drexler – Al Otro Lado Del Rio (Diários de Motocicleta) – Amazon.com
モーターサイクル・ダイアリーズ(2004年)
Diarios de motocicleta; de Walter Salles; con Gael García Bernal
「モーターサイクル・ダイアリーズ」はチェ・ゲバラの命日に封切りしたというRobert Redford(ロバート・レッドフォード)の製作総指揮により、アルゼンチンのWalter Salles(ウォルター・サレス)が監督した青春ロードムービーです。 「モーターサイクル・ダイアリーズ」は1952年のErnesto Rafael Guevara de la Serna(チェ・ゲバラ)の著書「Diarios de motocicleta(モーターサイクル南米旅行日記」にもとづいて作られました。 メキシコ出身の甘いマスクの俳優として人気のGael Garcia Bernal(ガエル・ガルシア・ベルナル)が主演します。
「モーターサイクル・ダイアリーズ」のあらすじ
チェ・ゲバラが友人のAlberto Granado(アルベルト・グラナード)と行ったハチャメチャなバイク旅行で見つけたものは・・・チェ・ゲバラが革命家になった理由が分かるかもしれません。
映画はゲバラのナレーションで進行します。 冒頭は実際に広大な南米大陸を体験しようと行き当たりばったりの冒険旅行の支度をするゲバラとアルベルトの映像。 荷造りしながらアルベルトが口ずさんでいるのはタンゴの”Adiós Muchachos”ですが、出発の前にパーティで踊るシーンで流れた曲は”Delicado”。
4ヶ月で8000キロを走る旅の足はアルベルトがポデローサ(Poderosa 怪力という意味)と呼ぶ39年型オートバイ(Norton 500)。 バイクの後ろに荷物を山積みにして文明を逃れる旅はアルベルトの30歳の誕生日までに旅を終える予定です。 自称放浪科学者で遊び上手なヒゲのアルベルトは29歳、アルベルトがミドルネームとなっているFuser(フーセルは激しい男の意味)とか「やあ」とか友達を意味するChe(チェ)と呼ぶエルネスト・ゲバラはバイクの副運転手で23歳のハンセン病を専門とする医学生、気晴らしにラグビーをやるが喘息持ち。 病気のおかげで兵役を逃れることができた。
ちなみにゲバラが専攻しているハンセン病とは昔はハンセン氏病と呼ばれていた”らい病”のことで、古くは旧約聖書の時代から存在するLeprosyとも呼ばれる慢性の全身性感染症だそうです。 皮膚が崩れたりする見た目から患者は差別され、日本でも国の政策で瀬戸内海の孤立した島に強制的に隔離されたそうです。
1951年1月、タンゴで名高いアルゼンチンのブエノスアイレスを立ち、国境を越えて、パタゴニア、チリ、そこで北上し6000メートルのアンデス越えでマチュピチュへ。 サン・パブロのハンセン病サナトリウムを訪ね、最後は南米大陸の最北端に位置するベネズエラのグアヒラ半島。 この旅の目的は南米の全ての女と寝るだけでなく冒険と旅を愛する心が二人の共通点。 金欠とボロバイクの故障で計画通りには行かないがアルベルトの口八丁の嘘も方便のおかげで旅で出会った人々に助けられ、ボロバイクのご機嫌を取りながら旅は進む。 ゲバラが持っていた米ドル札は故郷に残したガールフレンドのChichina(チチーナ)からマイアミで水着を買ってきてと頼まれた15ドルだから絶対使わない。 ゲバラが恋人のチチーナのチチを拝んだかどうかを詮索するいやらしいアルベルト。 アルベルトが夕食にと仕留めたカモを取りに玉も凍る湖に飛び込んだゲバラは具合が悪くなった。 そのチチーナを演じたのは2002年の「Frida(フリーダ)」でフリーダの妹でフリーダの夫の浮気相手となるクリスティナ・カーロを演じたMia Maestro(ミア・マエストロ)でした。 それでもアルベルトがチチーナのドルで医者に診て貰おうと唆しても応じない馬鹿正直なゲバラ。 ぐったりしたゲバラを後ろに乗せてアルベルトの運転するバイクは走る。 そのバイクもとうとうイカレた。
1952年2月、二人はチリの新聞社に入る。 翌日の新聞には一面に二人の記事。 嘘も方便か。 その新聞は壊れたバイクを無料で修理して貰うのに有効に使った。 二人がここで誘われたパーティで”El Chipi Chipi“を歌っているのはチリのフォールローレ歌手であるピチピチのMaría Esther Zamora(マリア・エスター・サモーラ)。
バイクの修理工の女房をめぐって乱闘となり二人はようよう逃げ延びたもののバイクのブレーキは壊れたままだった。 このページトップにある画像はその時に乗せてもらったトラックの荷台で同乗の牛の目が悪いと診断した時のゲバラです。 この後、せっかく取り付けたチリの姉妹とのデートをアルベルトにまかせて病気の老人を診るゲバラ。 だがゲバラの努力は虚しかった。
あのポンコツバイクはとうとうチリで鉄くずとなった。 ここからは無謀にも徒歩とヒッチハイクで旅を続ける。 既に一ヶ月も予定より遅れているのに。 これでもゲバラはチチーナの金には手を付けない。 チリの郵便局でチチーナからの手紙を受け取ったゲバラ、同封の金に小躍りするアルベルトをよそにゲバラは憔悴する。 そういえば冒頭の別れのシーンで「永遠に待つのは嫌よ。」とチチーナ言っていた。
銅山を目指してチリの砂漠を行く二人は極度の疲れから諍いを始める。 道中二人はこの砂漠で警察に追われる共産主義の夫婦に出会う。 子供を預けて仕事を求めて旅をしているという悲痛な面持ちの夫婦には裕福な家庭に育ったアルベルトとゲバラの旅の意味が理解出来ない。 この奇妙な夫婦にゲバラは人間としての親しみを覚えたのでした。 仕事を求めた銅山ではこの夫婦は無情にも引き離されてしまうのです。 ここまでくると穏やかだったゲバラは次第に攻撃的になってきます。
1952年3月、二人はトラックに乗せて貰い標高六千メートルのアンデスの山を越えペルーに入ります。 アルベルトは30歳になりましたが誕生日を祝う気力も残っていません。 力つきて倒れる二人の横を大荷物を背負ったペルー人が足取りも軽く通り過ぎます。 これは薄い空気に慣れている現地人だからでしょう。 南米の中心であるペルーのクスコはインカ帝国の遺跡がある地。 感銘を覚えたこの地でインカの人々の苦しい生活を知った二人。 アルベルトなどはインカの子孫と結婚しインディオ党を結成して革命を起こすとまで誓った。 マチュピチュにたどり付く頃にはゲバラのヒゲも段々生えてきて出発前より逞しく見える。
マチュピチュから現在のペルーの首都のリマに到着、この旅の目的でもあったペルーのハンセン病の責任者である博士の家があるメルカデス通りを探した。 博士はハンセン病院のベッドを二人に提供し、妻の次に大事なものを見せてくれました。 それは博士が書いた「沈黙の地帯」という小説です。 お世話になった博士と別れを告げペルーのプカルボの港からサンパブロに向けて出発する際、約束していた小説の感想を博士に聞かれた。 アルベルトの月並みなお世辞に反して、「博士の挑戦は価値があるが読むに耐えない。」と酷評したゲバラだった。 ”Bufeo(ブフェロ)”と呼ばれるカワイルカが生息するアマゾンの大河をゆったりと流れるようにフェリーが進むシーンで、ふと冒頭にしか喘息持ちのゲバラの咳き込むシーンはその後なかったなと思った途端にありました。 発作が出て苦しそうですが薬を入れたバッグが見当たりません。 私の息子も喘息だから分かりますが、このままでは死んでしまいます。 倒れ込んだゲバラにアルベルトが注射を打ちなんとか持ちこたえました。 そのアルベルトが船上で出会った売春婦を買いたいからあの15ドルをよこせとまだ回復していないゲバラに迫った。 するとゲバラが答えた、「あの金は鉱山の夫婦にあげてしまったからもうない。 買わないで口説けよ。」 なんだって!と憤懣やるかたないアルベルトは船内のカジノに行く。 文無しなのに。 ブラックジャックで無一文から運良く勝ち進んだアルベルトは大金を手にしてあの女をゲット。
☆ちなみに映画でペルーというとギターの音色も物悲しいリマ出身のEnrique Pinilla(エンリック・ピニラ)のテーマ曲(The Green Wall – Main Title)が印象的だったAlmand-Robles Godoi(アルマンド・ロブレス・ゴドイ)が監督した1971年の「La Muralla Verde:(みどりの壁)」を思い出します。 ペルーのジャングルに移り住んだ開拓者の家族を描いていますが、一人息子が毒蛇に噛まれたのに手当が間に合わず死亡してしまう悲劇です。 日本で発売された「みどりの壁」のEP盤サントラ(Columbia Records LL-2398-AX)のB面は主人公の開拓者がジャングルを歩く時に流れた”Jazz On The Street”でした。
やがて船はサンパブロに到着。 博士の紹介したペルーの教授が出迎えていた。 まるで凶悪な囚人を収容する刑務所のようにアマゾン川の向こうの南側に約600人のらい病患者が閉じ込められ、こちらの北側には重症患者を収容する病院と病院関係者がいると聞いた。 それでフェリーが曳いていたボロ舟のハンモックで横になっていた貧しそうな人々は誰だったのかを想像した。 この療養所で親身になって治療の手伝いをするゲバラだった。 アルベルトは博士の紹介でベネズエラのカラカスに行くことになった。 そろそろ年貢の納め時で定職に就いて身を固めるか。 病院関係者が開いた二人のお別れとゲバラの誕生を祝うパーティで流れたのはタンゴ!じゃなくて当時最新流行のペレス・プラードのマンボ! ”Qué Rico El Mambo”、”Mambo No. 5″、”Tomando Café”。 先生も踊る Mambo、看護婦も踊る Mambo、修道女も踊る Mambo! La Mambo Tango !
パーティの締めくくりはゲバラの大演説、「ペルーと統一された南米大陸に乾杯!」 しかしこれで終わりではなかった。 「北側でお祝いしてもらったから南側でもお祝いするんだ。 誕生日は今日だけだ。」とゲバラ。 ボートが見つからないから泳いで渡ると川に飛び込んだ。 「こんな夜に泳いだらなんかに食われちゃうぜ、俺は助けになんか行かないぞ!」とわめくアルベルトの声を後ろに。 この広大な川を泳いで渡った人間はいない。 だがゲバラはそれをやってのけた。
1952年6月、その翌日療養所を発った二人は食料を積んだ小舟でコロンビアに入る。
1952年7月、旅の最終地点であるアルベルトの就職先があるベネズエラのカラカス、別れ際にアルベルトが卒業したらここで一緒に働かないか?と誘った。 しかしこの旅で何かを得てこれまでとは考えが変わったゲバラはそれが何か見つけたいと答え、帰国するために機上の人となり、二人は別れることに。 南米の旅はゲバラを変えた。 ここでアルベルトは背を向けたゲバラに秘密をバラした。 「俺の本当の誕生日は8月4日なんだ。 早く旅をしたかったからさ。 お前、知ってたのか?」 Ciao Amigo!
De Usuahia a la Quiaca by Gustavo Santaolalla – YouTube
ゲバラ語録: 酒は飲まない。タバコを吸う。女を好きにならない位なら、男を辞める。だからと言って、あるいはどんな理由であっても、革命家としての任務を全う出来ないのなら、僕は革命家を辞める。
若き医学生だったチェ・ゲバラはその後マルクス主義に共感し、社会主義に傾倒し、アテマラの革命政権は崩壊がきっかけとなって、武力による革命を志すようになったが、暗殺命令が発せられたためメキシコに逃げた。 そこで亡命中だったキューバのFidel Castro(フィデル・カストロ)と出会い、1959年にキューバ革命を成功させて英雄となりました。 次々と革命運動を続けていた1967年10月、39歳にしてボリビア政府により処刑されたとする説には色々と謎が残ります。 なんと死後30年が経過した1997年にボリビアでゲバラの遺骨が発掘されてハバナに移送されたそうです。 私の記憶が間違ってなければ処刑されたゲバラの遺骨はボリビアの飛行機滑走路の下に埋まっていたとか。 ちなみにゲバラが使節団として日本を訪問した年は革命とは無縁の私がモダンジャズに目覚めた頃でもありました。
一方、この旅に同行したアルベルト・グラナードはキューバの医師になっり、ハバナで2011年に88歳で寿命を全うしたそうです。
キューバ革命の歴史についてはキューバ革命史 ラテンアメリカの政治を参考にして下さい。
キューバの報道カメラマンだったAlberto Korda(アルベルト・コルダ)による有名な1960年のゲバラの写真は1つ星のベレー帽にトレードマークの髭でお馴染みです。 1969年に29歳の津川雅彦がスペイン語で主演した「La Nokia de Cuba(キューバの恋人)」という映画の中で津川演じる日本人の青年が知り合った現地の美女マルシアがくれた本は1966年に発行されたゲバラの表紙の”The Diary of Che in Bolivia(ゲバラ日記)”でした。(水兵だという日本人観光客がキューバの女の子マルシアを追いかけるこの映画では予期せぬ豪雨の中の生カストロの演説シーンあり) 書籍の表紙に使用されたこのゲバラの写真が一時は商品化されてポップカルチャー(大衆文化)の象徴となり、大量生産されたポスターとTーシャツ業界のスターでした。 1971年製のBig Shot Portraitというポートレイト専用のPolaroidカメラを使用したAndy Warhol(アンディ・ウォーホル)のMarilyn Monroe(マリリン・モンロー)と並び人気を博しました。 チェ・ゲバラの影響で「革命がかっこいい!」と思われた時代もありました。
スカーレット・ヨハンソンがトムとは似た者同士のノラを演じた2005年の「Match Point(マッチポイント)」で主人公たちが観に行った映画がこの「モーターサイクル・ダイアリーズ」でした。(ノラはドタキャン)
こちらは2005年発売の「モーターサイクル・ダイアリーズ」DVD
モーターサイクル・ダイアリーズ 通常版
モーターサイクルダイアリーズの主題歌は”Al Otro Lado Del Rio(川の向こう側に)”です。 これはウルグアイ出身のシンガーソングライター”Jorge Drexler(ホルヘ・ドレクスラー)”の作詞・作曲で、オスカー(アカデミー賞)の最優秀オリジナル歌曲賞を受賞しました
Clavo mi remo en el agua …(僕の櫂で川に漕ぎ出す、君のも漕いであげるよ、明かりが見えた気がするんだ、川の向こう側に)と歌われる”Al Otro Lado Del Río(川を渡って木立の中へ)”の原語の歌詞はAl Otro Lado Del Rio Lyrics – Genius.com
現在人気のホルヘ・ドレクスラーのアルバムの1枚は”Eco”だそうです。
サウンドトラックはアルゼンチン・ロックシーンのラテン音楽プロデューサーのGustavo Santaolalla(グスターボ・サンタオラヤ)によるアコースティク・ギターとRonroco(ロンロコ)などアルゼンチン土着の伝統楽器の融合のなかに、陽気なPerez Prado(ペレス・プラード)のマンボ曲の”Que Rico el Mambo(Mambo #5、No. 5)”やMaria Esther Zapataのタンゴ曲の”Chipi Chipi”などが収録されています。
The Motorcycle Diaries
米・ワシントンポスト紙に「ラテンのJames Dean(ジェームス・ディーン)か、はたまたJack Kerouac(ジャック・ケルアック)か。」と書かれたチェ・ゲバラの23歳の南米オデッセイ【ゲバラの南米旅行記原語版書籍】
Motorcycle Diaries: A Journey Around South America
チェ・ゲバラの国葬で流れたペレス・プラードの”Theme of the Two Worlds”についてはAudio-Visual Trivia内の「Exotic Suite of the Americas」
ビートニク詩人のジャック・ケルアックについては「地下街の住人」を参照。
Gael García Bernal
1978年にメキシコに生まれたガエル・ガルシア・ベルナルは20歳の時2000年にAlejandro Gonzalez Inarritu(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ)監督の「Amores Perros(アモーレス・ペロス)」で長編映画デビューした後、「モーターサイクル・ダイアリーズ」で一躍世界に知られるようになります。 2006年に再びアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督監督の「Babel(バベル)」でBrad Pitt(ブラッド・ピット)と共演し、2007年に「Deficit(太陽のかけら)」で メキシコの有力者の息子クリストバル役で監督及び主演、2009年には「Mammoth(マンモス 世界最大のSNSを創った男)」にMichelle Williams(ミシェル・ウィリアムズ)と夫婦役で共演します。 新しいところでは2011年に「A Little Bit of Heaven(私だけのハッピー・エンディング)」で2007年頃の離婚後にポッチャリとなったKate Hudson(ケイト・ハドソン)と医師と患者のロマンスを演じ、チリのピノチェト独裁政権の恐怖政治をテーマにした社会派映画で2012年の「NO」で宣伝マンのレネ・サアベドラを演じますが、レネに味方する左派連合の中心人物ホセ・トマ・ウルティア役で共演するLuis Gnecco(ルイス・ニェッコ)は2016年に「Neruda」でチリのノーベル賞受賞詩人で政治家のパブロ・ネルーダを演じます。